7.15.2009

エピグラミック、でぃすこK譜学

「センセーショナリズムの大津波に飲み込まれて壊滅的な被害に飲み込まれぬよう、主体的に状況判断をして荒波をサーフし切るサバイバル力が大切だ。崩れゆく波頭を見誤らずに読み切るんだ。」

「無批判の熱狂に身を委ねる快楽に疑問を覚えるんだ。君が見ているものは誰かが君に見させている夢かもしれない。それは覚めて見る寝苦しい悪夢かもしれない。」

「まだ誰も見たことのない景色を見たくないのかい?今まで誰も行ったことのない遠くの果てを。君自身の目で直接に。」

「ファシズムや全体主義の亡霊の徘徊・・・グローバル帝国と技術的進歩主義との快楽的な蜜月に酔わずして、地球草の根ネットワークの、マルチチュードのポリフォニーの一部分として・・・」

『教会や王朝の神権政治のカーボンコピーならぬ、世俗化したデジタルコピーとして、盲目で全体主義的な大衆を煽動(hype)して心酔させ、エレクトロピラミッドという信仰を確立したロボット兄弟。キリスト教の象徴を後光に従えた正義団。そして、そのカリスマをアイコンにした、位階構造のローカライゼーション現象。』

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ディスコ・リバイバルの原因の一部分は、海外メディアも言及するように不況や戦争の暗い世相であると考えてきたが、それに加えてその音楽が担う愛のメッセージが今の世界に枯渇する何かを潤してくれる一面もあるのかもしれない。
ヒップホップ誕生の瞬間はディスコ現象と同床異夢のように迎えられた。先端的なパーティーでは白人も黒人も、パンクスもB-BOYも入り混じって踊っていたらしい。
しかも、ディスコ・シーンはゲイの社会運動と密接な関係にあったようだ。それはいわばサウンドトラックであった。ハーヴェイ・ミルクとゲイのファルセット・シンガー シルヴェスターとは親交があったらしい。
より寛容な世界への希求がディスコ復活と結びついているような気もしなくもない。
そして、皮肉にもその文化的土壌は嵐の如く世界中を吹き荒れた一連の【三角形】運動に対する反動としての性格を負っていると思われる。
過去の文化的遺産を乗り越えることとはつまり、親殺しのようなものではないか。

確実に海外のblogを見てるとディスコ野郎どもが増えてきてるし注目も高まってると思われるのに、国内での盛り上がりのなさ、というか一切実践されてはいない?現状がちょっとじゃなくてかなりもどかしい。

特にディスコを語る上で注意しなければならないのは、その担い手の問題で、70年代後半当時の全盛期を懐かしむ世代が同窓パーティーのような形で実践をしていたとしても、それは新しい文化的な生成物を産もうという動機を欠くだろうし、エネルギーに満ちた若者が入りづらい世界になってしまう。

サタデーナイトフィーバー公開のあたりからちょうど30年ほどのブランクいうことで、それは大体一世代の違いにあたるわけで、社会的に地位を確立した若しくは既に引退した親世代から、その子供世代に遺伝子が継承されたという見方もできるかもしれない。

日本でディスコがらみの話になると、DJとして名が挙がるのが多分ディスコダブブームも担ったであろうベテラン勢っていうのもなんだかなーという思い。
ディスコダブとコズミックは違うっていうこともあるし、なにより今世界規模で起きていることは、エレクトロだとかディスコパンクなんていうシーンを受け手としてであれアーティストとしてであれ形成してきた人が、authenticなディスコに向かっている、っていうことだと思うから。
(もちろん何年も前からディスコ大好きでディグしてきてる層が最下層で土台を成しているのだろうけど。)
直接自分の目で確かめたわけではないから、どのくらい盛り上がっているかなんてわかった話じゃないけど。
少なくともリリースとかblogでメディアに表面化してきている範囲で見て感じる話。
今後どこに向かうかもわからないけど。


かと言って自分から実践の場に身を投じているのか、って言われると何もアクションを起こしていない身なので何も言えなくなってしまうのですが。
とりあえず制作はそちらにベクトルを向けている。


(うーん、、、本当はディスコ掘ってる同世代の人知ってるんだけどね・・・、自由が丘で地道にやっているんだろうか・・・。つーか今の文脈で先端切り開くようなディスコのパーティーあったら文句言うのやめて狂喜して飛んで行くんだけど。)
(我こそはでぃすこ戦士なり!って方は厳しいご叱責も含めてコメントくださって結構です…厚顔無恥な私に…)

(なんでmixiでLindstromのコミュニティが1000人以上いてFaze Actionのはたったの8人なんだろう。不可解。)



時間配分が難しい。何をどれだけやるのか。

2 コメント:

sakana さんのコメント...

いつもブログ読まして頂いています。

現在のディスコ・リバイバルへの日本のリアクションは、大変鈍いと感じています。メディアの発信のしかたにも大きな問題があると思いますが、ネットを通じて音楽を手に入れれるようになった。そこに重要性はあまりないと考えています。

現場にいるアーティストの発信というのが皆無なのが大きなお問題なのではないかと僕は考えます。
代わり映えしない選曲、DJの大きな役割の一つとして新しい音楽を紹介する。新しい曲を紹介する。というものがあると思いますが、現在はわかりやすく盛り上がりやすい曲ばかりセットされているように思います。それは一種のディスコなのではないかと考えています。

日本のいわるるディスコは、箱DJ(レコードは店の物)でスタートし、リクエストやヒットソングばかりかかる時間を設けるなどの運営方式を取ってきました。

同時期のクラブは、現在と同じ方式を取っていました。

大阪だけかもしれませんが、クラブはディスコに対して戦っていたと当時の人に聞きました。単純に人が集まりやすくお金になるディスコに対して、クラブは儲からないがかっこいいことを追い求めていたそうです。そこには、鋭く尖った人間があつまり様々なカルチャーが生まれたそうです。

クラブはディスコ化によって、盛り上がりながら死んで行っているように思います。

自分は個人として、どこに着地点を置くかによって論点はずれてきますが、例えばいい曲をつくりたいのか、いいパーティーをつくりたいのかによっても大きく変わりますしね。

ただ、面白いことをやりだしている人も沢山います。どのタイミングかは、わかりませんがもう一度コロッとひっくり返りそうな気がします。希望的観測にしかすぎませんが・・・

KRK さんのコメント...

コメント大変ありがとうございます。

おもしろいご指摘ですね。ディスコとクラブのそのような歴史は知りませんでした。

ちょっと今mixiのディスココミュニティでも論争のようなものがありまして、そこに足を突っ込んでしまったのですが、
「ディスコは場所であってそもそもはジャンルではなかった、その場所ではなんでもかかって音楽を純粋に楽しんでいたんだ。ジャンルだDJが誰だ、で今のクラブには音を純粋に楽しむ雰囲気がない。」
なんてコメントをいただきまして。

SAKANAさんのご指摘だと、今のクラブはどんどんアティチュードとして大衆受け重視のディスコ化をしている、と。
上のmixiの方のご指摘だと今のクラブは視野が狭くて音楽への純粋なヴァイブスがない、と。

この二つ、矛盾してるようですけど、実は繋ぎ合わせると一つの真理が見えてくるのかな、と思います。
メディアなりで大きく取り上げられるアーティストのヒット曲をメインにプレイする、しかもDJオーディエンス双方がジャンルという一つの〈正解〉にしばられて、ちんまりとまとまってしまっている。

インターネットによるグローバル化がもたらす弊害は、画一化なんでしょうね。
すべてのものが同じ土俵に乗せられて、人気投票的に一極集中化していく。
しかも、権威のある人間なり巨大メディア資本なりが取り上げたものだけが〈正解〉として大衆の判断基準を形作る。

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現場での発信、やはり大切ですよね…。
東京よりも大阪の方がまだしっかりとクラブシーンは生き残って根付いているような印象はあります。
もう東京は外タレかビッグネームか、っていうのが大きな流れのように思いますので…。
自生的なエレクトロシーンにしても、【ビッグネームの権威の下請け】みたいなプレイばかりで、どうも。

現場に立たないで批判だけする、というのは卑怯なんですが…。


個人的には、曲の制作が目指す【見たことのない景色】の探究の姿勢と、現場でのDJのプレイが同じ着地点を共有できればベストだと思っています。
制作にしろ過去のいろいろなアーカイブからの影響をごちゃ混ぜに取り込んで何かをひねり出すわけですし、同じことがDJの選曲という文脈作りの中で起こればおもしろいと思います。

そんなパーティーができればいいのですが。

 
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